好美の幕末中央区58 人形町
コラムcolumn
二度の大火から復興した中央区のお話、ハイカラな街へと発展していった話を続けてきました。 その最初の大火からのお話を。実は江戸幕府公認の遊廓は、最初は中央区日本橋人形町にありました。これが明暦の大火があったためにその後浅草寺裏へ移転となったそうです。
元吉原、新吉原と当時の人は呼んでいたとのこと。そもそも「吉原」という名の由来は遊廓の開拓者・庄司甚内の出身地が東海道の宿場・吉原宿出身であったためという説もありますが、当時の日本橋葺屋町の土地が江戸湾海岸に近くヨシが茂り、原だったことから「吉原」となった。とも言われています。歴史ありですね。
このコラムのイラストは、イラストレーター・「みふねたかし」さんの無料イラスト「いらすとや」を使用しています。ほのぼのとしたタッチで官公庁をはじめいろいろな場面で使用されています。まさか花魁までカバーしているとは!
WRITER
祖父江 好美YOSHIMI SOFUE
コラム「幕末中央区」担当。声と身体を使った表現分野で活動している講師陣による団体「ココラボ」の代表。つくつきが開催したR65ミュージカルの作詞作曲演出を担当。鬼の演出家で出演者のシニアをビビらせた。幕末大好きのお母さんです。